私の茶道

無茶流の無茶無平と申します。

 無茶というと無茶苦茶と言われるように、決して良い表現とは思えないのだが、その語源を調べてみても意味も諸説あって私には明解ではない。

 私の「無茶」とは仏教の「無為」からくる無茶で、自然のままで良い、作為がない、手を加えていないものが美しいという意味という自己流の勝手な解釈に基づいている。また、「無茶」を禅の世界に置いてみると、もっと広く深い世界があるのだが、そこはつまらぬ話が続くので割愛しておこう。

 

 茶歴というと聞こえが良いが、茶道に触れたという意味では、大学時代に両親に無理やり茶席なるものに連れられて末席を汚したというのが事の始まりだと記憶している。

それから随分時間が経って、陶芸を始めたことがきっかけで茶道の稽古を始めたのだが、どうも納得がいかず中断。そんなことを繰り返している間に自分なりに茶道の世界が少しばかり理解できるようになったのだが、その一方でいわゆる茶道界は私の肌に合わないという事をひたすら感じるようになった。

 

 それにも関わらず何故茶道にこれほどまでに魅力を感ずるのだろうか。私にとって茶道とは、茶室という建築、造園、陶磁器、漆器、書画、骨董そして世界で最も美しい和菓子や日本料理、更に人をもてなす心にいたるまで、日本の文化と美が凝縮されている言わばモノから心までの日本の美の集大成だと理解している。これはとめどもなく広く、深いあまりにも魅力的な世界であり、人間を一回やっただけで満足に学べるようなものではない。

 

 茶と戯れる事半世紀にもなって、その「すべては一椀の茶のためのしつらえにすぎない」という茶道の入り口がやっと見えてきた。終わりなき喜びの旅は続いていく。