師匠の技

 気の早いことだが、事情があって来年4月の私たちの展覧会のためのイメージ写真の撮影をすることになった。

 木に遊び、漆に遊ぶ仲間たち「鎌倉山遊木民」と名付けた我々の会に、すばらしいアートディレクター、グラフィックデザイナーがいる。メンバー総意で無理やりこの展覧会のプロデューサーを彼にお願いしている。

 

その日、我々の師匠遠藤英明さんは、両手でやっと持てるかという巨大な木地を持って、いつもより少しばかり緊張の面持ちで表れた。

その木の塊は、碁盤、将棋盤屋さんが廃業して、譲り受けたものとのこと。無論節や虫食いもない極上の巨大な材料である。

 

 カメラマンの指示で、平らな表面に鑿(のみ)を入れる。次々と湧き出るような切りくずが美しい。瞬く間に飛んだ切りくずが床に敷きつめられていく。「そのまま続けてください」というカメラマンはそう言いながら撮影を始めた。

途中、僅かな休憩をはさんで撮影は続いていく。

 私がなによりたまげたのは、その彫りのスピードだ。道具は巾2寸を超えるかと思われる極浅丸の大鑿で、こんな鑿は欲しくても手に入るものではない。

いくら粗彫りとはいえ、この手際の良さは驚きである。半世紀も鍛え続けてきた技の世界だ。

 

 私がまね事を始めて数年経つ。年寄りにとって何事も力仕事の陶芸よりも楽だろうという横着な発想がきっかけであったが、この叩き鑿というのは十分に力仕事で、私のような年寄りは構えてかからないとやる気になれない。師匠のように縦横無尽に鑿を使えるようになるには、私の残った時間ではとても足りるものではない。

 

陶胎(とうたい)あそび

 陶胎(とうたい)と言っても、わからないかもしれない。

漆(うるし)はお椀のように、木の素材に塗るのが殆どだが、陶器に漆を塗ることを陶胎漆器と言っている。陶胎漆器は縄文の陶片も出土しており、陶器も漆もいかに古くから人々の生活とともにあったかということを知る事ができる。

 それはともかくとして、漆はいまだ見習いだが、陶芸は随分長くやってきたこともあって、陶胎というのは興味深い挑戦テーマである。

だからと言って、ただ陶器に漆を塗れば良いかといえば、そうはいかない。木と違って剥離の問題が課題のようだ。そんなことで、大まじめに取り組もうとすると調べれば調べるほどややこしく、難しそうに思えた。

 何事も案ずるより産むが易し、たまたま捨てようと思っていた廃棄寸前のトースターを使って、テストピースに漆を焼き付けることをやってみた。生漆を塗って、温度は130度、時間は合計2時間。合計というのは、このトースターのスイッチはタイマー兼用になっていて、最大15分しかセットできない。だから15分少し前に再びセットすること7回である。

日頃漆はこの季節でも乾燥に一昼夜ほどかかるが、このトースター焼き付け

 


はたったの二時間足らずで見事に乾燥している。この下地に問題がなければ、あとは漆の上に漆を塗り重ねるだけなので、ここから先は普通の漆塗りの工程でやっていけば良い。

 今回は失敗作の茶碗で遊んでみたが、予想していたよりも数段簡単なので拍子抜けしているというのが実感だ。陶器でもなく漆器でもない不思議なものができる可能性がある。あとは使ってみてどうか、そこが大切なので、せいぜいこのテスト茶碗を使ってみたいと思っている。

 

例によって始める前の写真を撮り忘れたので、形は違うが全く同じものの写真を載せておく、この変身ぶりは、なかなか印象的だ。

茶杓を削る

 鎌倉の禅寺で、茶杓を削る会に参加させていただいた。

手ほどきは古くからの関西の友人で、随分昔に鎌倉で茶杓を削る会をやらないかと持ちかけたのが縁で、以来何度となく東京、横浜、鎌倉など機会あるごとに声をかけられて茶杓づくりの先生をやっているようだ。

 

 私が彼に手ほどきを受けたのはかれこれ15年ぐらい前のことだ。

茶杓削りというのは、たかが一本の小さな竹の棒を削るだけとはいえ泥沼のように面白い世界である事を知って以来、随分と楽しませてもらっている。

 今回久々に参加して、年甲斐もなく夢中になったが、驚いたのは今風というのか、最新の技法というのか、竹を曲げる新技法にびっくりした。

茶杓作りの最大の難関は竹を曲げることなのだが、これは昔からローソクで曲げる部分を炙りながら、あるタイミングでぎゅっと曲げるのだが慣れるまではこれがなかなか難しい。

 ところが、なんと熱源にヒートガン(写真)を使うと、ローソクのように煤で真っ黒になることもなく、高温で均質に暖めることができ、うそのように簡単に茶杓の先を曲げることができるのだ。まことに些細な世界だが、これは茶杓作りの技術革命かもしれない。

 

 茶杓作りは、それなりの慣習やおおまかな規定のようなものが無いわけではないが、抹茶をすくうという機能と、全体の点前の流に添うことができれば造形は自由だと私は勝手に思っている。

 ところが、この小さな竹の棒を美しくも存在感があるように仕上げるのは至難の技で、こればかりは経験も大きく影響するものだ。ほんの僅かな刀ひと削りで全体の雰囲気が変わってしまうことすらある。

 

数だけは、随分削ってきたが、まあまあと思えるのはやっと一つあるかないかというのが正直なところだ。

物作りは、それが何であれでき上がった作品は作り手を映す。この小さな茶杓の宇宙に作者の人となりがでる、これを隠し通すことは不可能である。

 すこしでも良い仕事を目指すには、貪欲に広く美しいモノを見る事と、人としての己を磨く以外に方法はない。精進の日々は果てしなく続く。

 


展覧会に行った

ポール・ケアホル厶 展

 妙な言い方だが、普通の人にはあまり興味のない展覧会かもしれない。

それにしては、酷暑のウイークデーというのに決して少なくない入場者である。

ポール・ケアホル厶というのは、1950年、60年代に活躍したデンマークのデザイナーだが、業界にこれほどまでに名を残したのにはそれなりの理由あってのことだ。

 


 私が何故彼の仕事に魅かれるのかは、デザインというよりデザインの考え方である。

かつて一脚の椅子を所有していたことがあるが、他の数点も含めて決して座り心地の良い椅子ではない。無論私の意見にすぎないことだが。

 ケアホル厶のデザインは素材から始まる。それまで家具といえば木と決まっていた時代から

すれば異色である。そしてデザインの構成要素が極限までシンプルなのだ。代表作のひとつは折り曲げたスチールのシンプルなフレームにロープのみという構成だが、強靭なフレームとロープで張られたほどよいクッション性というのは理屈にかなっている。

 ただシンプルというだけではなく、ディテール、特に金属部品のこだわりが全体のイメージに大きく貢献している。木製の家具と対照的なのは、木は曲面加工やホゾ加工など職人技を要求される部分が多くあるが、金属のフレームはまさに大量生産前夜の発想の転換と言えるのかもしれない。

彼のデザインの中で、とりわけ金属部品のディテールへのこだわりは、木工芸の手仕事の魅力を存分に理解した人から生まれる発想にちがいない。

 

 僅かながらモノづくりを続けている身としては、家具に限らずモノづくりはいつも原点まで戻って考える、ゼロからの再考という視点に学ぶところは大きい。

 

 この新橋汐留のパナソニックミュージアムというのは小さな美術館だが、興味深い企画展が多い魅力的な美術館である。

いい顔

 オリンピックを見ている。人間が限界に挑む瞬間の顔は美しく輝いている。例外はない。

たとえ日頃は欲と煩悩との戦いであるにせよ、その瞬間は何も無い。金メダルすら浮かんでこない瞬間にいるに違いない。

 スポーツに限らずとも人間、なにかに打ち込んでいる瞬間にすべてが消えてしまうということはありそうに思う。

その瞬間の顔は、その人そのものになる。欲もおごりも全てが消える瞬間の顔がある。輝く一瞬なのだ。年齢性別にかかわらず、前に向かって一所懸命に生きている人は輝いている。なにかオーラのようなものを感じる時すらある。

 

 先日茶道の社中で茶碗を作る会があった。楽茶碗を作るというので勇んで参加させてもらった。

殆どの人は始めてで、数人が作ったことがあるという人たち。思うようになるわけもなく、無論そう簡単に粘土は言うことを聞いてくれない。私は手を止めて、仲間たちを眺めていた。

無心とはこの姿であろう、皆いい顔をしている。私には過ぎたる輝ける仲間たちである。

 人と会う。これほどまで人間の表情というものは刻一刻変化するものかと思う。人は嬉しい時に喜ぶ、人間という生き物は情感を隠して彫像の顔のように微動だにしない顔でいることは不可能な事なのかもしれない。

 百も承知のことだが、自分の顔は決して自分で見る事はできない。鏡も写真も虚像であり実像ではない。

できることならいい顔でいたい思う。念ずればかなうかもしれない。

 

CDプレーヤーを修理する

 デジタル時代になって、持っていたCDの大半を処分した。

今どき当然のことだが、処分する前にすべてデジタルデータとしてデータ保存をしている。

ただ、希少ものや限定版、カバーのデザインが格別美しいものなど、たいした理由ではないが、なんとなくとっておきたかったものがいまだ少なくない。

 

 そんなCDをある日突然聞きたくなって、ふと気がつけば我が家には、ずっと使っていないホコリをかぶったCDプレーヤーが一台あるのみ、あとはコンピュータに読み込むための玩具のようなCDドライブしかない。

どうせ聞くならと思いプレーヤーを引っ張り出してざっと掃除、製造は2003年となっているから20年ものである。悪い予感は的中して電源は入るものの動作しない。壊れない程度に叩いたり、いろいろボタンを押してみても反応なし。

おぼろげな記憶だが、当時としては結構上等な機械を頑張って買ったものなので、このまま捨てるのはしのびない。とはいえ部品などあろうはずもなく、修理もまず困難であろう。

 

 ここでいつもの「もったいない」の始まりだ。まず故障箇所のシューティングから始める。心情は「修理できないものはない」だが、電気の回路部品などに原因があれば私の知識で対応できるはずもなく墓場へ直行となる。それ以外の明らかな接触不良やメカの部分によっては修理の可能性もゼロではない。

 半日で見切りをつけると思っていた戦いは、まる二日に及んだ。ここからの話は書けばきりがないが、興味のある人は万に一人もいないだろう。よってすべてはしょって結論は、決して簡単ではなかったが、なんとか修理することができた。

まさかと思ったドライブベルトの交換部品(写真)が手に入ることには正直驚いた。売っているということは買う人がいるということだろう。

 しばらくはこのマシンで楽しめる。今どきと思わぬわけでは無いが自分のCDで音楽を聴くというのも妙な安心感があるものだ。


コーヒーも好き


コーヒーミルに一工夫

 抹茶、煎茶、番茶、紅茶、コーヒー、時に中国、台湾のお茶など「お茶」は暮らしの様々なシーンに登場する。

私の場合、最も頻度が多いのがコーヒーだ。抹茶ほどではないにしても、一杯のコーヒーを飲むまでの少しばかり面倒な手続きが好きなのかもしれない。中でもコーヒー豆を挽く作業はなかなか奥が深く、面白く楽しいものだ。

 その道具、コーヒーミルは選ぶのが難しいほど沢山売られている。今までいくつかのミルを使ってきたが正直なところ、これは素晴らしいというものに出会ったことがない。

 ここ数年Timemoreという中国製のミルを使っている。中国製に決して偏見をもつものではないが、かつて手にしたいくつかの商品であまり良い思いをした経験がないので、つい足が遠のいてしまう。

このTimemoreという商品のあまりに良い評価に背中を押されて求めてみた。価格は日本製の手挽きミルの最高級クラスを超えて高価である。全体の加工精度が素晴らしい、特に臼の加工精度は比較にならないほど素晴らしい、挽いたコーヒーの粒ぞろいも見事だ。そしてデザインも文句なし、特にテーブルに半ば常駐するようなもののデザインはとても大切なのだ。

 良いとこずくめのようだが、一度に挽ける量がマグカップ一杯程度しかないのは少々面倒かもしれないが、コーヒー党は我一人という私にはなんの不満もないどころか理想的なサイズでもある。

もう一つは、コーヒー豆の投入口が直径4.5センチと小さいので、コーヒースプーンで気軽に投入ということにはならず、よく豆をこぼす。

 そこで、この唯一の欠点をカバーする道具を作った。作ったと言っても、デザイン設計をして鎌倉彫の木地屋さんにお願いして作ってもらったのが写真のロートだ。仕上げの塗装をする前にと思いテストを重ねたが、なんとも具合がよく喜んでいる。

 それにつけても、世界有数のものづくりを誇る日本で、このTimesmoreのような素晴らしいミルができないはずがないと思うのだが。