料理屋やレストランで、驚くほど美しい盛りつけに出会うことがある。料理と食器が一体となって、まるでこの食器はこの料理のために造られたのだろうか、この食器ためにこの料理がつくられたのではと思うほど見事な世界だ。
より美味しく、より美しくを求め続けるプロの料理人たちの戦いの舞台である。
ただ、それは暮らしの食器とは全く別の世界であって、ほとんどの場合その食器を自宅で使いたいとは思わない。
陶芸を長くやってきたが、私が求め続けてきたのは普段の食器であり、よそ行きの食器ではない。日々の食卓が楽しくなる、美味しくなる器そして、暮らしの中で多少乱暴に扱っても良いような食器を意図してきた。
そのことは、まだ経験の浅い漆の器でも変わらない。
この鉢、三年前から作り続けているが、おかげさまでとても好評だ。
基本は自分が欲しいもの、自分が使うものからモノづくりをしているのだが、この鉢は別格と言えるほど便利に使っている。
食器を作るときには、私なりに何を盛るかをイメージしてデザインを始めるのだが、この鉢はそもそも無目的で、漆の黒にサラダの緑がきれいだろう程度の発想で作り始めた。
かれこれ二年ぐらい使っているが、食卓への登場頻度はナンバーワンかもしれない。サラダ、煮物、あえもの、フルーツ、デザートからミックスナッツまでなんでも受け入れてくれて美味しそうに見せてくれる舞台である。
ただその背景には、洗い物や収納をできるだけ少なくしてシンプルに暮らしたいという考えが影響していることは否定できない。(251114)
今年もやります。
「木の器 漆の器2025」
11月21日(木)から25日(火)まで、会場は例年どおり江ノ電和田塚そばの鎌倉彫工芸館です。
一見片口に見えるこのカップ、実は市販の紙のコーヒーカップだ。
漆は普通は木のボディ(木地)を作り、それに漆を塗って仕上げるのだが、漆の長い歴史には木以外の素材、陶磁器や皮、和紙などがあり、比較的新しくはガラスや金属などにも漆が使われている。
木地もご多分に漏れず、高価になるのみならず、良質の木材も少なくなっている。
思い立って、至極簡単に手に入る紙コップをボディにして漆を塗ってみた。ボディが紙だから簡単かと思ったが、そうはいかない。やはり紙は紙、相当塗り重ねないとしっかりした器にはならない。木と同様、あるいは木より手間がかかるかもしれない。
この器、実際に使ってみると、お酒の片口として約一合という容量は年寄りの晩酌にほどよい大きさである、おしゃれな小鉢としても面白い。スープやコーヒーを飲むには片口の注ぎ口がそのままカップの取っ手となる。
様々に使えてテーブルを楽しくしてくれる器になった。なにより軽いというのも捨てがたい魅力だ。(251105)
雨戸を開ける、おもわず「うわーきれいだなー」と声に出すことがある。
日の出から、ほんの僅かな間の陽光が輝く美しさを作り出す。見たこともない雲の造形であったり、新緑や雨上がりの緑、まれに霧や雪景色など様々だ。
美とは、というのはギリシャ時代から今日に至るまで、延々と論議され続けているテーマだが、無学を自認し、誇りすら感ずる山爺としては、何故「きれい」に定義が必要なのか、難しいことはわからない。
ただ、それほどに「美」は人の心を魅了しているということなのだろう。
私はただ、大自然の波動がその人に美しいと感じさせる何かを発進しているのだと思っている。
だから、私に「きれいだなー」と言わせるのは自分の意思ではなく、何かの力がそう言わせているにちがいない。
「きれいだなー」の日は、なぜか一日元気に過ごせるように思う。
庭の桜の葉が、色を重ねながら一枚一枚と落ちていく。
日々少なくなっていく緑との対比がとても
きれいだ。
ほどなく冬になる。(251031)
漆芸の師匠の手ほどきを受けながら、切り出しの鞘を作った。
想像していたより難易度は低い。
一枚の板を二枚にさく。片面に切り出しの形を正確に映しとる、切出しを埋め込む部分を3ミリ程度彫り下げる。
サンドイッチの中味が小刀というイメージだ。
のり付けして、もとの一枚の板のように貼り付ける。あとは外側を削って仕上げる、というのがおおまかな手順だ。
ただの棒切れのようなものが、手順を追うにしたがって鞘の景色にととのっていくのがとても楽しい。
難易度は低いと書いたが、これは用をなすものを作るということで、完璧な逸品とはほど遠いのは申すまでもなかろう。
トップの写真は摺漆の仕上げ中で、なにせ作業で漆が残った時に少しづつ仕上げている。もうしばらく続く。
ハンバーグを作った。
それがどうしたと言われそうだが、私にとっては大事件なのだ。
ハンバーグのようなものは何度か作ったことがあるが、真正面からハンバーグに取り組んだのは今回が初めてだ。
このところ毎月工房を訪ねてくれる仲間たちに、感謝のランチを作ることを思い立って、月替わりのメニューにチャレンジしている。いずれも先行する一ヶ月間が開発期間で、自分なりに試食を重ねたり、外へ食べに行ったりする。
やる以上はという相変わらずの性分で、最終的には自分なりのレシピにまとめる。
偉そうなことを言っても、所詮ハンバーグ。レシピの工夫と言ってもたかが知れている。多少普通と違うのは、肉は豚の赤身のひき肉のみ、豆腐とじゃがいもの摺りおろしを加えることぐらいである。
最大の学習は手で捏ねないことだ。ひき肉の脂は手の温度で溶けていく。よって、すべてを冷やしておいて特大のスプーンを使って捏ねる。フライパンで焼いて、後半に付けあわせを隙間にのせて、そのままオーブンで仕上げる。
これは取っ手のはずれるフライパンの恩恵でもある。
ただの素人なので、どう頑張ってみたところで、総菜のようなものだ。
その日の朝、今日のゲストの顔を思い浮かべながら、喜んでもらえるかなという素人故の不安と期待が入り交じる。
年寄りにもやさしい、いくらでも食べられるふわふわハンバーグはお世辞半分でも大好評だった。250928
「まな板は何がいい?」 と聞かれれば。それは「木のまな板に勝るもの無し」と答える。
「なぜ?」千年も使われてきたものに文句をつけるのは難しい。
人間が古いからと言われても、八十年以上も人間やっているのだから当然のことである。
まな板というのは料理の素材を切るための台にすぎないので、理屈は平らであれば何でも良いのだが、話はそう簡単ではない。
昨今、まな板もずいぶん種類が増えた。
ものには長所短所があるのは当然のことだが、種類が増えたことでまな板選びは、とてもやっかいになった。
何故なら、いまだに欠点のないまな板は、存在しないからなのだ。ただのモノを切る台だと言ってしまえばそれまでだが、日々の道具として気持ちよく使い続けるにはいくつかの条件がある。
まな板の条件
まず、平らであること。当たり前と思われるかもしれないが、完全に平らでないと包丁とまな板の間に部分的に隙間ができる。平らでないと薬味ネギがつながってしまうのがよい例だ。
そして、包丁との相性。この点では、木のまな板は包丁にとって理想の相棒だ。
プラスチックのまな板を使ってみると、どうも包丁の切れ味が長続きしない。一見やわらかそうだが、素材としては結構固いものなのかもしれない。
包丁のあたる音も、カタカタと快音とはほど遠い。最近のマイクロプラスチック問題なども気になるところだ。
そして重さ。毎日頻繁に使う道具というのは、重さも大事な検討要素だ。
木には及ばぬが、包丁との相性という点では、合成ゴム系のものが良いとされ、プロの板前に広く使われている。
へたすると木のまな板より高価だが、包丁の当たりは木に一番近い素材なのかもしれない。
ただ、年寄りには重い。私の使っていた少しだけ大振りのまな板は測ってみたら1.3キロぐらいだったが、頻繁に手に取るには重いので処分した。
なにより清潔。食べ物を扱うのに最も大切な条件だが、樹脂やゴム系のものは漂白したり、熱湯消毒ができるが、木製のものは漂白できない。食洗機などもっての他だ。
又梅雨時など、使った後なかなか乾かない。この雑菌対策が、木のまな板の最大の問題点なのだ。
さらに、臭いの問題もある。生臭ものや、タマネギなど、その都度洗って、よく乾燥させることが必須だ。
音、私にとって大切なこと。
子供のころに、朝早くから聞こえてくるまな板で野菜を刻む音は、だれしも記憶の片隅にあるのではなかろうか。
ちなみに、薄っぺらな樹脂のまな板で野菜を刻んでみてごらん。音までと言われるかもしれないが、私にとっては、美味しそうな響きというのは、とても大切だと思っている。
それで、結論は。
それでも私は木のまな板が最高だと思っている。前述のように欠点は少なくないが、日本の料理は水と包丁と言われるほどに包丁で切るということが原点にある。そこを優しく受け止めてくれるのは、いまのところ木のまな板の他にない。
ただ、これは私の場合ということで、大切なことは、どんな料理をするのか、忙しい日々の暮らしの中で、手間を少しでも省きたいということもある。包丁も普通に切れれば良いと言う人も多い。
つまらぬ結論だが、日々の暮らしにあったまな板を信頼できるお店で選ぶのが一番だろう。
ふと思い立って、愛用の木のまな板を削り直して、私の作っている木の器に使っているセラミック塗料で仕上げてみた。無論無害であるし、防水機能は木の食器で実験済みなので、これも問題なし。(写真)
はたして、理想のまな板の出現となるや否や、お楽しみである。 (250911)
気の早いことだが、事情があって来年4月の私たちの展覧会のためのイメージ写真の撮影をすることになった。
木に遊び、漆に遊ぶ仲間たち「鎌倉山遊木民」と名付けた我々の会に、すばらしいアートディレクター、グラフィックデザイナーがいる。メンバー総意で無理やりこの展覧会のプロデューサーを彼にお願いしている。
実際の制作を撮る
その日、我々の師匠遠藤英明さんは、両手でやっと持てるかという巨大な木地を持って、いつもより少しばかり緊張の面持ちで表れた。
その木の塊は、碁盤、将棋盤屋さんが廃業して、譲り受けたものとのこと。無論節や虫食いもない極上の巨大な材料である。
カメラマンの指示で、平らな表面に鑿(のみ)を入れる。次々と湧き出るような切りくずが美しい。瞬く間に飛んだ切りくずが床に敷きつめられていく。「そのまま続けてください」というカメラマンはそう言いながら撮影を始めた。
途中、僅かな休憩をはさんで撮影は続いていく。
匠の技 ともかく早い
私がなによりたまげたのは、その彫りのスピードだ。道具は巾2寸を超えるかと思われる極浅丸の大鑿で、こんな鑿は欲しくても手に入るものではない。
いくら粗彫りとはいえ、この手際の良さは驚きである。半世紀も鍛え続けてきた技の世界だ。
私がまね事を始めて数年経つ。年寄りにとって何事も力仕事の陶芸よりも楽だろうという横着な発想がきっかけであったが、この叩き鑿というのは十分に力仕事で、私のような年寄りは構えてかからないとやる気になれない。師匠のように縦横無尽に鑿を使えるようになるには、私の残った時間ではとても足りるものではない。
鎌倉の禅寺で、茶杓を削る会に参加させていただいた。
手ほどきは古くからの関西の友人で、随分昔に鎌倉で茶杓を削る会をやらないかと持ちかけたのが縁で、以来何度となく東京、横浜、鎌倉など機会あるごとに声をかけられて茶杓づくりの先生をやっているようだ。
私が彼に手ほどきを受けたのはかれこれ15年ぐらい前のことだ。
茶杓削りというのは、たかが一本の小さな竹の棒を削るだけとはいえ泥沼のように面白い世界である事を知って以来、随分と楽しませてもらっている。
今回久々に参加して、年甲斐もなく夢中になったが、驚いたのは今風というのか、最新の技法というのか、竹を曲げる新技法にびっくりした。
茶杓作りの最大の難関は竹を曲げることなのだが、これは昔からローソクで曲げる部分を炙りながら、あるタイミングでぎゅっと曲げるのだが慣れるまではこれがなかなか難しい。
ところが、なんと熱源にヒートガン(写真)を使うと、ローソクのように煤で真っ黒になることもなく、高温で均質に暖めることができ、うそのように簡単に茶杓の先を曲げることができるのだ。まことに些細な世界だが、これは茶杓作りの技術革命かもしれない。
茶杓作りは、それなりの慣習やおおまかな規定のようなものが無いわけではないが、抹茶をすくうという機能と、全体の点前の流に添うことができれば造形は自由だと私は勝手に思っている。
ところが、この小さな竹の棒を美しくも存在感があるように仕上げるのは至難の技で、こればかりは経験も大きく影響するものだ。ほんの僅かな刀ひと削りで全体の雰囲気が変わってしまうことすらある。
数だけは、随分削ってきたが、まあまあと思えるのはやっと一つあるかないかというのが正直なところだ。
物作りは、それが何であれでき上がった作品は作り手を映す。この小さな茶杓の宇宙に作者の人となりがでる、これを隠し通すことは不可能である。
すこしでも良い仕事を目指すには、貪欲に広く美しいモノを見る事と、人としての己を磨く以外に方法はない。精進の日々は果てしなく続く。
抹茶、煎茶、番茶、紅茶、コーヒー、時に中国、台湾のお茶など「お茶」は暮らしの様々なシーンに登場する。
私の場合、最も頻度が多いのがコーヒーだ。抹茶ほどではないにしても、一杯のコーヒーを飲むまでの少しばかり面倒な手続きが好きなのかもしれない。中でもコーヒー豆を挽く作業はなかなか奥が深く、面白く楽しいものだ。
その道具、コーヒーミルは選ぶのが難しいほど沢山売られている。今までいくつかのミルを使ってきたが正直なところ、これは素晴らしいというものに出会ったことがない。
ここ数年Timemoreという中国製のミルを使っている。中国製に決して偏見をもつものではないが、かつて手にしたいくつかの商品であまり良い思いをした経験がないので、つい足が遠のいてしまう。
このTimemoreという商品のあまりに良い評価に背中を押されて求めてみた。価格は日本製の手挽きミルの最高級クラスを超えて高価である。全体の加工精度が素晴らしい、特に臼の加工精度は比較にならないほど素晴らしい、挽いたコーヒーの粒ぞろいも見事だ。そしてデザインも文句なし、特にテーブルに半ば常駐するようなもののデザインはとても大切なのだ。
良いとこずくめのようだが、一度に挽ける量がマグカップ一杯程度しかないのは少々面倒かもしれないが、コーヒー党は我一人という私にはなんの不満もないどころか理想的なサイズでもある。
もう一つは、コーヒー豆の投入口が直径4.5センチと小さいので、コーヒースプーンで気軽に投入ということにはならず、よく豆をこぼす。
そこで、この唯一の欠点をカバーする道具を作った。作ったと言っても、デザイン設計をして鎌倉彫の木地屋さんにお願いして作ってもらったのが写真のロートだ。仕上げの塗装をする前にと思いテストを重ねたが、なんとも具合がよく喜んでいる。
それにつけても、世界有数のものづくりを誇る日本で、このTimesmoreのような素晴らしいミルができないはずがないと思うのだが。